校歌と「軍艦マーチ」


仙台の伯から次のようなメールが届きましたので紹介します。(2002年10月)

先日の松本会の折、仙台市民図書館の蔵書の中に母校のことを述べた本があったと、 同館長をやっている奥山恵美子さんが該当部分を抜き出して持参したものです。
         「軍艦」百年の航跡
日本吹奏楽史に輝く「軍艦マーチ」の真実を求めて
(2000年4月10日 有限会社大村書店発行)

筆者: 谷村政次郎(元海上自衛隊の音楽隊長)

    第4章 「軍艦」に関わった人たちと出来事

 米内光政海軍大臣の母校・盛岡第一高等学校と校歌

高校球児の熱戦が繰り広げられている甲子園球場で、バックスタンドのセンターポールに勝利校の校旗を掲揚する際、突然『軍艦』のメロディーが流れてきたら、観客はびっくりするであろう。

実際にそのようなことがあったことから、「盛岡第一高等学校の校歌は、『軍艦』の旋律とおなじである」ことを知っている人はかなりいた。この一事だけでも、高校野球がいかに人気があるかということを証明している。

明治の末頃、校歌として指定され、そろそろ一世紀を迎えようかという時を経ても、いまだに唱い継がれているその旋律は、時とともに少しずつ変化しているようであるが、その精神は見事に継承されているのである。

その学校は、最期の海軍大臣米内光政大将の母校であった。

夏の甲子園球場に流れた『軍艦』の旋律

昭和四十三年八月十四日の、朝日、毎日二紙の朝刊スポーツ面に、前日甲子園球場で行われた第五十回全国高校野球選手権大会、第五日の第二回戦第二試合で、岩手県立盛岡第一高等学校が徳島県代表鴨島商業高等学校に四対二で逆転勝ちした記事の中に、「校歌は軍艦マーチ」とまったく同じ見出しで、次のようにエピソードが紹介されている。

「第二試合で勝った盛岡一高。ホームプレートに整列していざ校歌をバックに掲揚。とたんに軍艦マーチが流れ出した。これには三万の大観衆もギョッ。『間違いじゃないか』『応援歌では?』 とひとしきりガヤガヤ。

ところが遠藤野球部長によると明治四十三年ごろ、盛岡中学時代からレッキとした校歌。明治四十年に『世にうたわれし浩然の・・・』という歌詞がまず生れた。そこへ軍艦マーチと知らずにある生徒が『こういういい曲がある』とくっつけてしまったのだという。

『わが校は米内海軍大将をはじめ軍人をたくさん出していますので別になんの抵抗もなかったようで・・・。もっとも球場での演奏はテンポが早すぎました』と遠藤先生の話。校歌の吹込みを一手に引受けた朝日放送ラジオ制作部も、この譜面にはびっくり、盛岡まで問合わせたそうだ」(朝日新聞)

「『まさか盛岡一高が四国のチームに勝てるとは・・・』とスタンドが驚いたとたん、勇ましい軍艦マーチの旋律が鳴りひびいて、観衆は二度びっくり。『レコードを間違えたのではないか』という声も出たほどだが、これが何と盛岡一高の校歌。

遠藤部長に聞くと『明治四十二、三年ごろから校歌になっているそうです。でも本当はもっとのろい旋律なので、軍艦マーチには聞こえないのです』という。そして『なにしろ米内光政海軍大将(元首相、海相)が出た学校ですからね』とつけ加えた。校歌では一番強そうな学校だ」(毎日新聞)

甲子園の高校野球で勝利校の校歌を演奏し、校旗を掲揚するようになったのは、昭和四年春の第六回全国選抜中等学校野球大会からである。当時は約二十名ほどの平安中学の吹奏楽部が、球場の片隅で勝利校の校歌を演奏していた。

夏の全国高校野球選手権大会では、昭和三十二年の第三十九回からと、ずっと後のことになる。したがって八回目の出場でも盛岡一高の校歌が甲子園に流れたのは、この時が初めてであった。全国紙が揃って「校歌は軍艦マーチ」と見出しを書いたのもうなずける。しかし、地元紙岩手日報の扱いは少し違うようだ。

「やったり!盛一ナイン応援席から大歓声 校歌、高らかに球場包む世にうたわれしこう然の 大気をここにあつめたる・・・』の盛岡一高校歌が十三日午後、甲子園球場いっぱいに流れ、センターポールに同校校旗が浜風になびきながら上がった。盛岡一の勝利をたたえる拍手と歓声もドッとわく。胸を張って本塁前に一列に並んだ盛岡一ナインは感激で胸が締めつけられ、勝ってむせび泣いていた」(以下略)[甲子園で向井田記者]

校歌の歌詞をきちんと書き、『軍艦』には一言も触れていないところを見ると、この記者は同校の卒業生ではなかろうか。

その十年後の昭和五十三年の第六十回大会にも、盛岡一高は甲子園に出場したが、今度は一回戦で敗退してしまった。八月九日の読売新聞朝刊には、次のような記事と学校紹介が載っている。

 「『ふるさと応援席』力落とすな後輩達・・・。よくがんばったぞー盛岡市内丸の岩手県庁地下ホールでは、試合時間と重なった昼休み。盛岡一高OBの職員約五十人が、備えつけのテレビの前にかじりついた。同校は石川啄木、宮沢賢治を輩出した県内一のエリート校で、県庁職員五千四百人中約三百人を同校出身者が占め、幹部クラスもズラリ。

しかし、この日の盛岡一は持ち前の粘りが見られず、いいところなし。『なんとか一矢報いてくれ』と悲痛な声援が飛びかった。『後輩はよくやったが、軍艦マーチと同じメロディーの勇壮な校歌を甲子園で一度、全国の人に聞かせたかったなあ』とはあるOBの話」

『岩手県立盛岡第一高等学校』

明治十三年創立。県内で最も古い進学校で、宮沢賢治、石川啄木、金田一京助など多くの学者、文化人を輩出している。生徒数は千六百五人(うち女子二百七人)。野球部は大正六年の第三回大会以来昭和四十三年の五十回大会まで過去八回夏の甲子園に出場、ベスト4二回、ベスト8二回の歴戦」

名門盛岡中学校が輩出した多くの高級軍人たち

第六十回大会では緒戦で敗退し、話題の校歌を甲子園球場に流すことができなかった。しかし学校紹介に挙げられているような学者や文化人ばかりでなく、名門校にふさわしく軍学校に進む者が多く高級軍人も輩出していた。

帝国海軍には七十七人の海軍大将がいる。その内岩手県出身者は、齋藤實(海軍兵学校第六期)、山屋他人(同十二期)、栃内曽次郎(同十三期)、米内光政(同二十九期)、及川古志郎(同三十一期)の五人である。

これは鹿児島県の十七人は別格として、東京、佐賀の六人に次ぐものである。その内、海軍大臣が三人、更に総理大臣が二人も出ているとなると、さすがの薩摩海軍も兜を脱がざるを得ない。

この五人の海軍大将の内、盛岡一高の前身である盛岡中学校卒業者は、米内光政(卒業明治三十二年)と及川古志郎(同三十四年)の二人である。山屋他人は、中学校に入学はしたものの家計が苦しかったため中退して、学費のかからぬ海軍兵学校へ実力で入校したらしい。

米内、及川両大将の卒業年次は、盛岡一高の卒業生名簿によるものであるが、二人ともその前年の十二月十七日に、それぞれ海軍兵学校生徒として江田島に入校している。

帝国陸軍の陸軍大将は百三十四人いるが、岩手県出身者とされているのは、板垣征四郎(陸軍士官学校第十六期)と東条英機(同十七期)の二人のみである。

東京生まれの東条大将は岩手県とは縁が薄いようだが、板垣大将は明治三十五年に盛岡中学校卒業となっている。共に陸軍大臣となり、更には総理大臣も出たとなると、十九人の陸軍大将の内六人の陸軍大臣、その内四人の総理大臣を出した長州陸軍も率では適わないようである。

悲運なことに、二・二六事件の際内大臣だった齋藤大将は陸軍の青年将校に暗殺され、
陸軍大将は二人とも昭和二十三年十二月二十三日にA級戦犯として処刑された。

盛岡第一高等学校の校歌

米内光政海軍大将の出身校、岩手県立盛岡第一高等学校(旧制盛岡中学校)の校歌が、海軍軍歌『軍艦』とほとんど同じ旋律で、昭和四十三年夏の甲子園球場で、流されたということを私が知ったのは、そのかなり後のことであった。

ウイリアムズバーグ・サミットで中曽根首相に対する歓迎行事の際、アメリカ陸軍軍楽隊が『軍艦』を演奏したことを、日本のマスコミが大騒ぎしたのは昭和五十八年五月末のことであった。

この報道姿勢に疑問をもって『軍艦』に関して調べ直し、その翌月の海上自衛新聞に二回にわたって「行進曲『軍艦』について」「行進曲『軍艦』が初演された日」と題して投稿した。

この投槁記事を読んだ盛岡一高出身で海上自衛隊勤務の苫部地謙輔二等海佐が、母校の校歌が『軍艦』と同じ旋律であることを教えてくれた。

最初「私の出身校の校歌が『軍艦』と同じです」という意味が、どうしても分からず何度も聞き直した。「甲子園に流れた時は話題になりました」という話から調べた結果、冒頭のような記事に接することができた。

昭和六十二年度の同校学校要覧に載っている格調の高い校歌の歌詞は、次のとおりである。
      岩手県立盛岡第一高等学校校歌
  一 世に謳はれし浩然の   大気をここに鐘めたる
    秀麗高き厳手山     清流長き北上や
    山河自然の化を享けて  汚れは知らぬ白堊城

       (以下、校歌の歌詞部分省略)

 『軍艦』に近い旋律の校歌・そのルーツを尋ねて

岩手日報の記者が甲子園で初めて校歌が演奏された際、旋律についてはなにも触れなかったことから、同校の卒業生ではないかと推測したのにはそれなりの理由があった。

横須賀音楽隊長当時の昭和六十三年三月十六日、自衛隊岩手地方連絡部募集課長の本多正純二等海佐の同行を得て盛岡一高を訪問した。

昭和三十年に同校を卒業した教頭の太田原弘先生に面会し、校歌にまつわるエピソードなどをいろいろと聞かせてもらうことができた。

三時間にわたっての面会の間、終始一貫していたのは、海軍軍歌『軍艦』と同校校歌の旋律を別のものとしていたことである。

甲子園で流れたのは普通の行進曲『軍艦』の旋律に、歌詞をつけたものであったらしい。したがって観衆もびっくりしたのもうなずける。朝日、毎日の両紙で遠藤部長が「テンポはもっと遅い」と話しているが、その問題もこの訪問で解決することができた。

卒業式の校歌斉唱の録音テープから流れ出る旋律は、『軍艦』とは似て非なるものであった。太鼓のリズムにのって、ゆっくりとした逍遥歌風のテンポで歌われていて、直ぐに『軍艦』の旋律と気が付く人は少ないであろう。

以下は推測であるが、校歌を朝日放送ラジオ制作部に提出する際、校歌としての楽譜がなかったことから『軍艦』の旋律をそのまま送ってしまったのではなかろうか。そして同校に確認し、間違いないということで、行進曲『軍艦』の前奏を付けて編曲したのであろう。

もし同校で録音した校歌がそのまま流されていたら、「校歌は軍艦マーチ」の見出しの新聞記事は掲載されなかったであろう。そのルーツはともあれ、それほど違うのである。その校歌を伝承するため同校独特の伝統的な行事がある。

入学式が終わったその日から、新入生に課せられた特訓がその最たるものであろう。新入生は体育館に正座させられ、先輩から一週間にわたって校歌と応援歌をたたき込まれる洗礼を受けるのである。覚悟をして入学したとはいえ新入生、特に女生徒には過酷なものであるらしい。足が痺れた生徒を体育館から運び出しマッサージするのも先輩の役である。一時離脱した者もその時間分だけは、きちんと補習させられることになっている。こうして一高精神を短期間で叩き込まれるのである。

同校には県下でも有数の優秀な吹奏学部があるが、校歌応援歌の類には一切伴奏をすることがない。卒業式でも国歌『君が代』は吹奏楽で伴奏するものの、校歌は応援団用の太鼓のリズムで歌う勇壮なものである。

校歌制定日とされる明治四十一年五月十三日は、前夜からの雨で創立記念目の運動会が中止され、急きょ雨天体操場における全校の大茶話会に変更された。この時に五年生で級長だった伊東九万一が、壇上で発表した五節の校歌が現在のものの骨子となり、大正元年に部分的に手直しされ四節ととなり現在にいたっている。

同校の記録では、この時から『軍艦』の旋律で歌われたことになっている。この頃すでに二種類の海軍軍楽隊演奏の『軍艦』のレコードが発売されていることから、その旋律はかなり一般にも知られていたとも推測できる。

遠藤部長の言う明治四十三年頃であれば、ちょうど『軍艦行進曲』と題した楽譜が、東京神田の音楽社からこの年の七月一日に発売されており、七月十六日の日比谷公園音楽堂の演奏会のプログラムには、作曲者自身の指揮で初めて演奏された記録があり、時期的には一致する。

いずれにしても『軍艦』の旋律から校歌となっていったと思われるが、あくまでも校歌であって『軍艦』とは一線を画している。岩手日報の記者が卒業生であれば、当然その辺のところは意識しているはずである。

独特の方法で継承されている校歌は、長い間に少しずつ旋律が変わってきている。『軍艦』ではなく校歌であるという観点から楽譜を用いず、
すべて口伝で継承していることから、年代によって少しずつ違っているという。

それぞれ自分たちの歌い方が正当であると信じ主張しているそうで、同窓会などで一緒に歌うとかなりのズレが生じるようである。

戦後出た校歌改正論議と今も継承されている伝統


岩手県下第一の進学校である同校は独特の校風と伝統を誇っており、共に明治時代に制定された校訓「忠實自彊・質實剛健」と校歌が、いまだに引き継がれている。戦前の校訓、校歌を継承している公立高校は、全国でも珍しいことであるらしい。

長い同校の歴史の中で校歌の元歌が『軍艦』らしいということで、生徒の間から校歌改正の声があがったことがあった。

昭和二十五年頃、「新しいデモクラシーの時代にそぐわない旋律であるから改正するべきである」という主張が、いずれも後に国立大学の教授となった数名の生徒が中心になって展開されていった。この件に関しては学校当局はまったく関与せず、全校生徒による討論集会でその是非が盛んに論議された。但し運動部のOBからは、「校歌を変えるなどとんでもない。そんなことになれば先輩後輩の縁を切るぞ」
と圧力がかかった。遠征費などの援助を受けている運動部員には、これはこたえたらしい。
 
校歌改正の賛否を問う投票は、大論議を重ねた結果、運動が始まってから四、五年を経た昭和二十八年頃に行われた。結果は四対六で改正案は否決された。その後も時々改正が話題になることがあるらしいが、まったく問題にされずに現在にいたっている。

雨の日も風の日も、登校日には必ず校舎屋上に陣取った応援団員が、正門に向かつて午前八時から二十分間ほど、校歌をはじめとして応援歌を今も毎朝歌い続けているのである。この応援団員からは、例年東京大学をはじめとして一流大学に進む者が多いという。

全国的に名門校の伝統がすたれていくなかで、米内さんの母校には、古い校歌と校訓を守っている本物の文武両道のバンカラ後輩が、まだ健在なのだけは確かである。

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