昭和44年度卒業式(1970.3.9)


我々の卒業式

前年のたれ幕事件の記憶がまだ残っていたので、 新聞記事になったのでしょうか。 私も卒業式には出ていないので、「ふーん、こんな卒業式だったんだ」 とはじめて知りました。 欠席者が2割もいる、というのもはじめて知りました。

たれ幕事件のためなのか、それとも、以前から行われていたのか不明ですが、 教師と三年生が集まって、卒業式は如何に在るべきか、 どのように実施するか、ということを年度はじめから数回議論したこと は覚えています。 結局のところ、「卒業生主体」の式典なのか、あるいは 「学校主体」の式典なのか、ということが「如何に在るべきか」 を決定するのだと、私は思っていましたし、今もそう思っています。 100%どちら、ということはあり得ないと思うのですが、 前者の考えも少しは考慮すべきだと思っています。 新聞記事を読む限り、その方向が出ているなー、と感じました。 嬉しいですね。昨今はどうなのでしょうか?

昭和45年3月10日・岩手日報 (?)

盛岡市上田三丁目、盛岡一高 (高橋元昭校長) の卒業式は、 九日午前十時から同校体育館で行なわれ、 高橋校長を胴上げするなどして四百九十七人の卒業生は 父兄や教職員と卒業を喜び合った。

同校の卒業式は、卒業生をはじめ在校生、父兄、教職員ら約八百人が出席して、 例年通り全日制、定時制が合同で行なわれた。 卒業生の中には自衛隊の制服を着た定時制一本木分校の生徒五人の姿もみられた。 ことしの卒業生は全日制四百人、定時制九十七人で、合わせて四百九十七人。 うち全日制の卒業生の約二〇パーセントが私立大学の受験などのため欠席した。

「君が代」斉唱のあと、卒業生の名前が読み上げられ、 高橋校長から各クラスの代表に卒業証書が手渡された。 従来は、卒業生総代に授与していたが「県教委告辞」代読が廃止され、 時間に余裕が出たためクラス総代となった。 続いて高橋校長が 「三年間、または四年間に母校で得たものを社会のために生かしてください」 と激励した。

祝辞は鈴木彦次郎同窓会長=作家=だけで、 鈴木会長は 「自分の目で正しくみる、自分のことばで言う、社会人になってください」 とはなむけのことばを贈った。 送辞、答辞のあと、卒業生と在校生が校歌を合唱、応援団が太鼓と団旗を持ち出して 「サンキュー、サンキュー卒業生」、 「ファイト、ファイト後輩」 と卒業生と在校生がエールを交換、 お互いに激励しあった。 最後に卒業生が高橋校長の胴上げを提案、四、五十人の卒業生が 高橋校長、新里盈教頭らを次々と胴上げする "ハプニング?" があった。

同校全日制の卒業生の全員が進学希望。 定時制卒業生九十七人のうち進学希望は二十六人で、 七十一人が就職し、大学や職場に巣立った。


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